十進時計を作った。

十進時計を作った。

開発に至った経緯は、この辺を読めばおおよそ察することができるだろう。

つまり、また私がTwitterでどうしようもない放言をし、それに対する「フランスでは実際に一時期十進暦が使われていたが、流行らなかったため廃れた」という指摘によって興味が惹起され、その勢いのまま作成された、というわけである。 この十進暦について、私はWikipediaに書いてあること以上の情報は本当に知らないから、詳しい話は当該ページを参照してもらいたい。

そうすると、十進暦そのものについて言及しないのであれば、ここでは何の話をするのか、ということになってくる。

残念ながら、ここでは特に書くことがない。

時計の実装仕様についても、すでに十進時計のページに書かれているからである。 準拠すべき仕様と準拠した実装、それと開発に至った経緯以外の何も存在しない空虚なプロジェクトだから、それらがすでに記述され尽くしていることを確認したいま、私の書くべきこと(そして、この記事を読んでいる人の認識すべきこと)は完全になくなった。 したがって、次に続くのは、私が別に大して書かなくてもいいことである。

秋分の計算面倒すぎる。 秋分を計算するためには当然天体の軌道を計算しなければならないわけだが、そのようなことを悠長にやるつもりはない。 統計データや既存のシミュレーションから導き出された予測をハードコーディングするのもなんとなく嫌だから、最終的解決手段として、私の誕生日を元旦ということにしてしまった。 秋分が概ねグレゴリオ暦の9月23日、私の誕生日が同9月22日であるから、そんなものでよいだろう。 元はと言えば、適当に閏年を挟んでいたフランス革命政府が悪いのである。

そもそも、現在の元日が元日である理由は、古来より元日が元日であった、というだけの、くだらない循環参照の苔むした産物にすぎない。 我々がそれに意味を与えるのは、我々がそれに意味を与えてきたからである。

くだらない! 20世紀はまさに進歩の世紀である。 万物は進歩のために、また、進歩のもと、数理的合理性に裏付けされるべきである。 暦とて進歩からは逃れ得ない。 歪んだ暦はより一層正されるべきである。 正しい暦は、我々を直線の彼方の合理的理想郷へと導くだろう。

苔も苔の大苔の大ボスの名のもとに保証されるどうしようもない暦と比べて、秋分を元日にすることの正当性たるや! 天文学的正当性であれば春分の日にも全く同じ権利、すなわち元旦を主張する権利があり、新年を迎えた後に春が来る、という一種のめでたさを感じないこともないが、一方で秋分はこれから収穫が始まり、あるいは終わり、祭りの季節が到来する合図である。 祭りの季節の始まりが祭りの日であることの正当性といったら!

このような二重の正当性によって、秋分の元旦たる権利は保障されているのである。

結果的に、暦における課題は次のように帰着する: 秋分の計算面倒すぎる。 1年が365.24日だからおおむね4年に一度閏年を挟めばよろしい、としたものの何と聡明なことか。

あなたのような方があめつちを作ってくださればよかったのに!

2024-01-26, 書いた人: 宇田