以前、リプできたものについて語るという企画をTwitterでおこなった。 このページは、その場で紡がれた文章をそのまま集めたものである。
このページを作るきっかけとなったその企画は、Twitterに適応しすぎて失われた文章著述の能力を取り戻すため、という建前で行われた、かわいげのある戯れにすぎない。 いわゆる、馴れ合いである。 だから、その結果として生み落とされた文章も、それ自体にはなんの意味もない書き捨ての文章であって、後から読み直してどうというものでもない。 おそらく二度と誰にも顧みられることのない、誰の歴史にもなり得ない雑文である。
しかしそれでも、指を動かして産んだ文章である。 あなたが開くことのない卒業文集を焼かないように、見返すことのない写真のバックアップをそれでも取るように、過去の自分が存在したという証拠の存在が、私の記憶を支え、私の意識の存在を私に信じさせるのだ。
だからこれは、寄る辺ない私が一人で安心して存在し続けるための、夜空の星のようなものである。 どうしようもなく自分の存在が不安になる夜に見返し、星をつなぎ、自分の正統性をやわらかく信じようと思う。
そんな夜が来ないことを願いながら、
宇田
東京隷下のベッドタウンで育った者にとって、地元トークの時間ほど耐えがたいものはない。 その理由をこれから説明しよう。
まずもって、東京は山賊である。 東京の支配下に置かれた街は、必ず、名前・人・文化のいずれかを奪われる。
名前を奪われた街などは、その中でもまだマシな方である。 変なレジャー施設が街の8割を占めることさえ我慢してしまえば、あとは観光客が生産した山のようなゴミを処理するだけで街全体が食べていける。
人を奪われた街は老人だらけの介護産業集積地となり、老人の世話で一旗上げようと目論むベンチャーの実験場か、あるいはそれが人のぬくもりに敗れたのちには、遺産・年金の名産地となる。
文化を奪われた街というのは特に悲惨である。 そこには何もない。 街全体がサラリーマンのコロニーとなり、毎朝スーツを着た男性を唯一の駅から大量に排出し、夜になったら無限にある家にスーツを着た男性をそれぞれ1人ずつ収納する。 それだけの土地になる。 ベッドタウンとはよく言ったもので、サラリーマンたちは与えられたベッドの大きさや快適さなどというものを日々競っているが、そんなもの東京ディズニーランドやくらやみ祭に比べたらカスもカス、ダニとノミのどちらがペットに向いているかについて延々言い争っているのと何も変わらない。
そんなベッドタウンに生まれ育った阿呆のクソガキどもは、まあ大抵少々賢しらに育って東京のどうでもいい大学(東京山賊大学などが多い)に吸い込まれていくわけだが、そういうどうでもいい組織は大抵つまらないクソガキどもの画一性に愛想を尽かしているので、地方から奪ってきたガキと混ぜることで、まあなんとかバラつきみたいなものを産もうとする。 どうせ全く同じスーツを着たサラリーマンを毎年3000人輩出するだけなんだから全く意味のない行動なのだが、なんかスーツの糸がほつれていたりするとどうも予算が下りるようだから仕方がない。
そうしてクソガキと糸のほつれたガキが対面すると、必ずと言っていいほど地元トークが発生する。 すなわち、糸ほつれたちは、どうして自分のスーツの糸がほつれているのか、ということを必死に説明する。 そういう慣わしである。
地元トークは基本的にプロトコル通りに進む。 プロトコルにはこう書いてある。 「適当に観光地だの珍妙な風習だのについて話して少々の笑いをとったら、次に、ベッドタウン育ちのクソガキくんはどこ生まれなの? と問いかける」 ベッドタウン育ちのクソガキたちはそれを聞いて曖昧に微笑み、まあ大抵、自分たちが東京に文化を収奪される前はどんな大根を植えていたのか、ということを説明することになる。 かなり、バカみたいなものである。 平均よりももう少し賢しらだった場合は適当な繁華街の名前を挙げてナンパなどをするものだが、そんなのは東京の靴を舐めるか靴下をしゃぶるかの違いである。 まあ、バカである。
そういうわけだから、おれのような典型的なクソガキにとっては、地元トークの時間というのは大変な苦痛に満ちたものなのであった。 誰かここから出してくれませんか?
2010年前後のゆるキャラブームの折に濫造された箸にも棒にもかからないご当地キャラクターの1変種であると切り捨てるのは簡単だが、そんな現代社会の過密なネットワークにすらかからないことを言ってもせんかたない。
ごずっちょと言うのは白鳥モチーフの阿賀野市のゆるキャラなのだが、その体色は白ではなく、阿賀野川モチーフの青である。 この薄ら青い白鳥は2009年1月26日にラジウムの森で発見され、がんばっている阿賀野市民にラジウムパワーを注いで回るという。 正気の沙汰ではない。 阿賀野川と言えば新潟水俣病だが、公害との戦いや労働者の権利獲得の戦い、また市民のための科学教育水準向上の戦いをまるっと無視したこんなラジウムバードがのうのうとミーム的繁殖を遂げている事実が気にも留められず、ここ15年ものあいだ流され続けてきたのである。
天網は擦り切れた。 絶対者の失効を裏付ける証拠は、こんなところにまで浮かび上がっている。
よく批判の槍玉に挙げられていますよね。 やあ時間の無駄だの回り道だの好き放題言われていますが、そんなボンクラの言うようなことは気にしなくても結構です。
どうにも純粋化された不動の目標の存在を素朴に信じてそこまでの道程を一心に辿ることがあなた自身のメタ目標である、と盲信させることがそこらじゅうで流行っているようですが、そんなものはあなたを金や承認の湧き出る油井として扱おうとする資本家どもの搾取の手口の1つに過ぎないわけです。 確かに、その過程であなたはまあいくらかの、資本家どもの搾取からちょびっとこぼれた分の富を受け取ることができるかもしれません。 それでいい、という知足の人もいるでしょう。
ですけれどもね、まあ自ら望んで練習のための練習やら勉強のための勉強なんかに熱中するようなあなたは、たいていそうではないでしょう。 途中で諦めて別の価値を探しに行けたらいい方で、多くの場合は劣等感と敗北感を覚えながら、心底恨めしそうな目でTのためのTに手を出し渋った過去を睨め続ける一生を過ごす羽目になるんじゃないかなあ。
意欲というのは適当な方向に整えたほうがいいに決まっていますが、そのコーディネートは他でもないあなたの手で行うものです。 ですから、まあラプラスの悪魔に言われたのでもない限りは、こういうのを無理して控える意味はないと思いますよ。
お酒! 素晴らしいものです。 人類は有史以来さまざまな飲み物を開発してきましたが、その限界は水という溶媒にありました。
水が人体にとってもっとも受け入れやすい分子の1つであるのは確かですし、他の溶媒と比べてもずっと性質の良いものであることに間違いはありません。 ですが、人間の可能性が水程度に束縛されていいわけがない。 人類が火星に行こうというこの時代に、なぜあえて水の与える限界の内にとどまらなければいけないのか。 文明人ならそんな無粋なこだわりは捨てておしまいなさい。 さあ、ボイジャーとともに宇宙の彼方まで!
それにしたってエタノール! なんと素晴らしい溶媒でしょう? お酒の、他のあらゆる飲料とは一線を画す芳醇な香りは、この毒性が比較的低く、非極性分子を比較的よく溶かすことのできる得難い液体に支えられています。 ほら、そのウイスキーを口に含んだら、舌の上で転がしてみてください! エタノールが揮発するとともに、あなたの鼻腔をバニラ、ハチミツ、シトラス、あるいはピートの香りが駆け抜けるでしょう。 世界がほほえんでいるように見えませんか? 豊かな香りは、いつだってあなたの人生を華やかで鮮やかなものに変えてしまいます。
香りだけが酒ではありませんね。 副次的効果として酔いが付属してきますが、これも使いようでしょう。 あなたがしっかりと手綱を握れるのであれば、あるいはあえて手綱を放すことから始まる勝算を立てることができる傑物なのであれば、お酒はあなたの強い味方になってくれるかもしれません。
季節柄、どうしても浮かれて羽目を外したくなる気分ですが、決して呑まれることのないように。 楽しく快くお酒を飲みましょう。 夜はまだまだ続きますよ。
やっていく
2024-06-03, 書いた人: 宇田
Tweet