カンタン・メイヤスーによる著書『有限性の後で』は、有史以来増築に増築を重ねて混迷を極めた形而上学的思考の限界について問い直し、存在論的な問いに対する一つの新たなアプローチを提示するテキストである。
西洋哲学史が常に対峙し続けてきた絶対者とわれわれとの関係を総括し、世界それ自体の偶然性を基軸としてまとめ上げたこの著作は、2010年前後に現代哲学界を席巻した思弁的実在論(Speculative Realism)の中心となるテキストであり、カント以来の批判哲学に対する強烈な反論でもある。
以下では、『有限性の後で』の哲学史における立ち位置、その主張を、わずか1時間というレギュレーションの中で許される限りに集約し、紹介する。なお、このレポートは第2回 深夜の真剣レポート60分一本勝負「最近学んだことの中で3番目くらいに難しかったこと」への提出原稿として書かれた。
プラトンを祖とする西洋哲学の流れの中では、つねに「絶対的なもの」がその中核をなすテーマの一つであり続けた。絶対的なものの可能性、現実性、意味、注釈、存在証明。神学や認識論、存在論、そして論理学と、形而上学を基礎とするありとあらゆる哲学の分野が、「絶対的なもの」をその射程に収めている。
では、その「絶対的なもの」とはいったい何か。たとえばプラトンの唱えたイデア、アリストテレスが『形而上学』で論じた第一原因、キリスト教神学における神、あるいはデカルトが懐疑しなかった自己。これらに共通する性質は、他の誰にもよらず、ただそれ自身によって存在している、ということだ。
われわれの認識する実在はイデア界の存在の射影であるが、イデアそのものはわれわれとは切り離されて直接相互作用しえない場所に存在している。
また、世界の運動にはすべて原因が存在するが、その原因の原因の、と遡っていったときに現れるすべての原因でありそれ自体の原因であるような動かざる動者が存在する。
あるいは、自らの持つ完全性から、それが存在しないということはもはやありえず、したがってその通りに存在するような究極の神が存在する。
そうでなくとも、すべてを懐疑すれどもただ自分が懐疑しているということだけは確実に事実であり、したがって懐疑しているような実在として自己が存在する。
これらすべてを指すような「絶対的なもの」とは、ただそれがすべての「起点」であることのみを存在理由とするもののことであり、そして絶対的なものがありうるとしたら、それはそれ自身が他の何にも依存しない形で——すなわち、独立に、あるいは自己参照的に——存在する。それはまさに、絶対的で必然的な真理そのもの、またその根源として。
このような絶対者の素朴な実在性を『純粋理性批判』によって批判し、形而上学の世界に大きな一石を投じたのがカントだった。
カントは著書の中で、このような絶対者のことを「物自体」と呼んだ。そして、絶対者は「われわれがそう認識した絶対者」という相対的な実在の中に囚われてしまい、われわれの理性の射程には存在しえないのだとした。これは「超越論的転回」と呼ばれる、近現代西洋哲学の基盤まさにそのもの。カント以来の批判哲学が必ず依拠しなければならない、哲学史における重要なパラダイムシフトなのだ。
その後、ハイデガーやらヴィトゲンシュタインやらがカントの仕事の中に残されていた物自体の思考可能性——すなわち、われわれの思考の外においても世界はある論理法則の上で無矛盾であると保証できること——を批判したことでついに思考はその有限性を引き受け、絶対的なものへのアクセスを完全に放棄するに至ったわけであるが、『有限性の後で』はまさにこの部分について強く反駁する。
さて、過去の偉大な哲学者たちの仕事によって絶対者の無矛盾性がもはやありえなくなった以上、この枠組みに矛盾点が存在し、われわれから絶対者へのアクセスが実はまだ開かれていたのだ、と判明しない限り、われわれは絶対者に関するいかなる言及をも否定することができない。なぜなら、無矛盾律の射程はもはやわれわれの理性の内側にしか及んでおらず、理性の外側においてはいかなる矛盾さえも許容されうるからだ。
だから、たとえ創造論者が、この世界は神による被造物なのであり、少なくともその限りにおいてダーウィン以来の進化論というのはまったくのデタラメなのである。人類はアダムが創造されて以来の生き物なのであり、20億年前の生命の痕跡はサタンが人類の信仰を揺らがせ進むべき道を踏み外させるために用意した罠なのである、と主張していても、そのような信仰を絶対的に否定することは、いかなる精緻極まりない論証をもってしても、もはやわれわれには不可能なのだ。
このようなアイロニカルな状態に陥ってしまったのは、思考の有限性によってわれわれから絶対者——それは前述のような絶対的必然性のような形をとって顕現する——へのアクセスが完全に不可能となり、われわれは「事実として世界がこうなっている」ということしか述べられなくなってしまったためだ。
それ以外の主張に対しては、それがたとえどれだけ「根本的な矛盾を含んでいて科学的に間違っている」状態でも、その領域における無矛盾性をわれわれはすでに放棄してしまったため、反証可能性が残されておらず、われわれは語りえないものと対峙してただ沈黙することしかできない。あらゆる絶対的なものへの言明、すなわち信仰は、すべてが等しく並べられ、まったく同一の確率で可能でなければならないのだ。
ところがメイヤスーは、それ、すなわちある性質を持つ存在が別の性質を持ちえたことを認めることこそがまさに「絶対的な言明」なのであり、世界に残された唯一の公理的な絶対性なのだと看破した。
前述された信仰主義的な言明が許容されるのは、世界そのものが事実こうなっている、という事実性が相対的なものであって、世界がこうある究極的な理由は思考不可能であり、すなわち論証不可能であり、ゆえに相対的に理由づけられるからだった。
だが、事実性が絶対的なものだとすると、すぐさま世界が非理由的であること——世界が今のような状態である理由は絶対的に存在せず、どんな理由もつけられず、ただ世界が絶対的な偶然性のもとに今このように存在していること——が示される。なぜなら、絶対的事実性というのは、世界が事実としてこうである以上のものではないということは、世界そのものの性質なのだ、という主張だからである。
すなわち、これまでの哲学の論証を認め、その上で「別様である可能性」が絶対的であることを発見することによって、科学実証主義を含む信仰主義的な言明はもはや単なる世界の理由付けとして一蹴され、非理由律によってすぐさま却下されることになるのだ。
では、なぜ「別様である可能性」は絶対的な言明たりうるのか。それは、別様である可能性の中に、われわれ自身の非存在の可能性が包含されているからだ。
あらゆる可能性がわれわれ自身にとってのものとしてしか考えられない相対的なものであるかぎり、われわれはあらゆる相対的に可能な世界の中での存在を要請される。
だが、われわれはその逆に、この世界のあり方としてつねに「われわれの死後の世界」について思考することを強いられる。ところが、これはすでに相対的な可能性として思考不可能な領域に突入している。なぜなら、その世界においてもはや相関性——われわれと別存在との関係——の第一者たるわれわれは存在せず、ゆえに世界は神秘の靄の中に包まれて不可知になってしまうからだ。
したがって、われわれは「別様である可能性」を絶対者の地位に据えるか、あるいはわれわれと関係なく存在する絶対的な物自体を再び認めるかのどちらかを選ぶことを迫られる。
しかし、物自体の存在はすでに先哲によって却下されているのだった。
すなわち、われわれは単純な推論規則に従い、「別様である可能性」の絶対性を認め、偶然性の絶対性を認めることになるのだ。
よって、メイヤスーはこう宣言する。
いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない。世界の事物についても、世界の諸法則についてもそうである。まったく実在的に、すべては崩壊しうる。木々も星々も、星々も諸法則も、自然法則も論理法則も、である。これは、あらゆるものに滅びを運命づけるような高次の法則があるからではない。いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる高次の法則が不在であるからなのである。
世界は、ただわれわれが計算力の欠如によってカオスのその先を予測できないために論理法則や物理法則にしたがって別様に変わりうるのではなく、あらゆる法則そのものを変容させながらハイパーカオスとして別様に変わりうるのである。
われわれの世界を守護する理由律という王はもはや打ち倒された。しかし、それは秩序の欠落ではない。むしろ、相対化によって台座を剥ぎ取られ、脛を叩き折られたまま洞窟の中に二世紀以上放置されてきた科学という大巨人の復権のときなのである。新たに建て直された台座の上で、正しく日の目を見るときなのである。
われわれは真の絶対性という強固な土台の上に今一度科学を結え付け、信仰主義という幽霊を打ち払い、われわれの行く末に広がる全き暗闇を文明の光で隅々まで照らしあげねばならない。われわれは再び大同団結し、未来へ向けて進み出すのだ!
というところで本稿は結びとなる。本編となる『有限性の後で』では、このあと「では、なぜ確率的な帰結に反してこの世界は安定し続けているのか」だったり、「どのようにこの基盤の上に科学を据えつけるのか」といったことについて、残り2章を割いて議論をしているが、テーマ「子最近学んだ中で3番目くらいに難しかったこと」の範囲からは外れると考えたので、ここで筆を置かせてもらおう。
なお、この文章は結局4時間かけて書き上げられた。遅刻ごめんなさい。アーメン。
2024-10-28, 書いた人: 宇田
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